────時空と宇宙の謎を解明する。
東京大学 素粒子物理国際研究センター

山下研究室

LHC/ATLAS実験

ATLAS TGC

建設中のミュー粒子トリガー検出器TGC(Thin Gap Chamber).作業をしているのは素粒子センターの石野助教と山下研の学生.

ATLAS実験

ATLAS実験*1, *2は,史上最高の重心系エネルギー(=14TeV)の衝突型陽子加速器LHC(Large Hadron Collider*3)を用い,従来の10倍以上小さな領域の物理現象を探る実験です.LHCはフランス-スイス国境にあるCERN(欧州原子核研究機構)に建設され,素粒子物理学国際研究センターのグループはミュー粒子検出器,および物理解析において重要な役割を果たしています.

ミュー粒子を用いた物理解析

山下研は発足以来,継続的にATLAS実験,特にミュー粒子検出器の建設に大きな貢献をしてきました(右図).加速器実験におけるミュー粒子検出器の役割について説明します.

ミュー粒子は素粒子の一つであり,下のような性質があります.

  1. 電荷と弱荷を持ち,カラー荷をもたない
  2. 質量が軽過ぎず,かつ重過ぎない(=105.7MeV)

カラー荷を持たないので強い相互作用をせず,また質量が軽過ぎない故に物質との電磁相互作用(=制動放射)で顕著にエネルギーを失うことがありません.また質量が重過ぎないので寿命が2.2μ秒と長生きです.その上電荷をもつので検出は容易です.

ATLAS実験では検出器の比較的外側に遮蔽体を置き,それを突き抜けてくる荷電粒子をミュー粒子と同定します.ミュー粒子検出器はこのミュー粒子を高い検出効率,運動量分解能で捉えます.また高い横運動量を持つミュー粒子を含むイベントに対するデータ取得命令(トリガー)を発行する役割も担います.

ミュー粒子はLHC加速器で起こる様々な事象の終状態に現れます.現在の物理学の枠を超える理論の中でも,ミュー粒子を終状態に持つ事象が多数予言されており,最も重要なもののひとつとなっています.例えば,より大きなゲージ対称性を含む理論,余剰次元を持った重量理論などには数TeVの質量の中性粒子が存在し,2つのミュー粒子に崩壊します.また標準理論で預言されるヒッグスはZ粒子を介して4つのミュー粒子に崩壊します.

これらの新粒子の探索には,まずはミュー粒子検出器が確実に動作すること,検出器の動作を理解していることが最も重要となります.

この様な観点から,山下研は検出器に重点を置いてATLAS実験に参加してきました.実際の研究対象は

等です.

ミュー粒子を用いたW/Zボゾンの生成断面積の測定

2010年3月に物理ランを開始したLHC加速器の最初の4ヶ月の陽子陽子衝突において,ATLAS検出器で記録された約300 nb-1のデータを用いてW,Z粒子の生成断面積を測定しました.

LHC加速器は史上最高の重心系エネルギー(√s = 7 TeV)で陽子陽子衝突を行うため,従来の実験では重い粒子の生成に寄与しなかった小さなエネルギー成分のパートン分布関数の理解が重要となります.W,Z粒子の生成断面積はNNLOレベル*4まで計算されており,我々のパートン分布関数への理解を検証する良いプローブです.

ATLAS TGC
ATLAS TGC

測定された√s = 7 TeVにおけるW(上),Z(下)の生成断面積(それぞれクリックして拡大します).

測定にはW,Z粒子がミューオンを含む終状態へと崩壊する過程(W→μν,Z→μμ)を用いました.ミューオンは擬ラピディティ*5ηが|η|<2.4 の範囲のものを選び,その領域でのミューオンの検出効率は実データを用いて評価を行いました.検出効率の評価にはZ→μμ事象のミューオン対を利用する手法(タグ&プローブ法)と,B粒子崩壊など断面積の大きな事象から来るミューオンを利用する手法(シングルミューオン法)の2つを用い,統計誤差の範囲内で矛盾の無い結果を得ました.

本解析ではW→μν事象を1181回,Z→μμ事象を109回観測し,これに前述のミューオンの検出効率等をかけ合わせることで

という結果を得ました.本測定の不定性は12〜15%,理論計算の不定性は約5%であり,測定結果はいずれもNNLOの理論計算と系統誤差の範囲内で一致しました.

本研究は史上最高の重心系エネルギーで行われたW,Z粒子の生成断面積測定であり,√s = 7 TeV領域での我々のパートン分布関数への理解の妥当性を最初に示すことができました.パートン分布関数の理解は実験の全ての物理解析に影響するため非常に重要です.今後ATLAS実験ではZ→μμ事象を最大限に利用して検出器を較正し更に詳細な検証を行っていきますが,本研究はその先鞭をつけるものであると言えます.

*1 ATLAS Experiment [http://atlas.web.cern.ch/Atlas/index.html]

*2 ATLAS Japan [http://atlas.kek.jp/]

*3 Taking a closer look at LHC [http://www.lhc-closer.es/]

*4 NNLOはNext to Next Leading Orderという意味.生成断面積を求める摂動計算において最低次のツリーレベルから数えて3番目に低い次数までを考慮したものを表す.

*5 ビーム軸からの角度をθとして,擬ラピディティηは η = - ln[ tan(&theta/2) ]で与えられます.ηが0に近いほどビーム軸と垂直の方向に近いことを表し,|η|が大きいほどビーム軸方向に近いことを表します.