東京大学素粒子物理国際研究センター(ICEPP)では、次世代エネルギーフロンティア計画である電子陽電子ヒッグスファクトリー、特に国際協力で日本での実現を目指す国際リニアコライダー(ILC)計画実現のため、ヒッグスファクトリーの物理・測定器研究を行っています。 物理研究では、ILCを想定した測定器シミュレーションを通じて、ヒッグスファクトリーで観測できると考えられるヒッグス粒子や新物理の事象、背景事象となる素粒子標準模型で予測される事象を大量に生成し、実際の実験と同様の解析技術を用いて、 観測したい事象をどのような精度で測定できるか、もしくはどのような感度で探索できるかを調べ、ヒッグスファクトリーで未知の物理事象をどのように明らかにすることができるかを詳細に調べます。 また、最新のAI技術を使って、測定器で観測できる信号からどのように本質的な物理事象を再構築できるかというアルゴリズムの研究も行っています。 測定器研究では、ヒッグスファクトリーで発生する事象を正確に測定するための測定器技術、特にクォークやグルーオンから発生するハドロン粒子束であるジェットの測定精度を高めるための新しいカロリメータの開発を国際協力で進めています。 ヒッグスファクトリー測定器の要となる高精細カロリメータを実現するシリコンやシンチレータを用いたプロトタイプカロリメータを実際に製作し、ビーム試験等を通じて運用上の問題を洗い出したり性能の実証をしたりするプロトタイプ研究とともに、 ピコ秒タイミング測定、二重読み出しカロリメータ等のさらに新しい技術を使った性能向上のための研究も並行して行っています。 また、ILCやヒッグスファクトリー計画や関連研究を推進するための国際組織でリーダーシップを取り、世界の研究者と協力して計画実現および関連研究の推進に取り組んでいます。 なお、ILC計画の概要については、ICEPPのILC紹介ページもご確認ください。
ICEPPで行っているヒッグスファクトリー関連研究
- ヒッグスファクトリーの物理研究
- ヒッグス粒子とストレンジクォークの結合定数測定性能評価 (末原、清野、岩手大学)
深層学習によるストレンジジェット識別アルゴリズムを用いて、ヒッグスがストレンジクォーク対に崩壊する稀な事象(全ヒッグス崩壊の約0.02%)の探索と、 それを用いたヒッグス-ストレンジ結合の探索感度評価を行っています。標準模型の5倍程度のヒッグス-ストレンジ結合があった場合、250 GeVのILCで探索可能であることを示しました。 さらなる性能改善に向け解析を続けています。
- ヒッグス粒子の自己結合の測定性能評価 (末原、Tian、DESY(ドイツ)、SLAC(アメリカ))
ヒッグスの自己結合は、時空の構造や宇宙の物質生成にも関わりヒッグス粒子の測定の中でも最重要の測定の一つと考えられていますが、 ヒッグスを2つ同時に生成する事象が必要で頻度が低く困難な解析テーマです。私たちはドイツのDESY研究所等と協力して、 私たちが開発したジェットフレーバー識別アルゴリズムをヒッグス自己結合の解析に適用し、従来の解析結果から大幅な性能向上を目指すとともに、 干渉する他の中間状態との分離や、自己結合以外の新物理の影響をどう分離するかなどの研究にも取り組んでいます。
- 有効場理論を用いた新物理探索感度の評価 (Tian)
- 2フェルミオン事象を用いた電弱プロセスの精密測定 (Tian、末原、ワルシャワ大学)
電子陽電子衝突によるフェルミオン対生成は電弱理論の基本プロセスで、この精密測定はZ'等のMulti-TeV新粒子探索への感度を持つとともに、有効場理論へのinputとしても 重要なプロセスです。私たちは、特にクォーク対生成事象について、91 GeVのZ-poleエネルギーと250 GeVのヒッグスファクトリーのエネルギーの双方を用いて、特に軽いクォーク対の 崩壊に焦点をあてて研究を行っています。軽いクォーク対生成事象は、ジェット識別アルゴリズムで精度を出すことが難しいですが、終状態放射(Final State Radiation)を用いることで 効率的に軽いジェットの粒子・反粒子を識別することが可能であり、この方法を利用した解析を進めています。
有効場理論は、精密測定の結果を新物理の感度に包括的に焼き直すための理論で、従来ヒッグスの測定に用いられていたカッパ法よりも モデル依存性が少なく様々な精密測定の結果を解釈できます。ヒッグスファクトリーではハドロンコライダーよりも一つ一つの測定の感度の高さに加え、 より多くの種類の測定が可能なことから有効場理論による新物理モデルの探索感度が大幅に向上します。 私たちは、欧州の理論研究者等と協力して、有効場理論によるヒッグスファクトリーの新物理探索感度の研究を行っています。
- ヒッグス粒子とストレンジクォークの結合定数測定性能評価 (末原、清野、岩手大学)
- ヒッグスファクトリーのソフトウェア・AI研究
- 深層学習を用いたParticle Flowアルゴリズムの開発 (末原、村田、iLANCE interns)
Particle Flowアルゴリズムは、ヒッグスファクトリーのための微細分割カロリメータと飛跡検出器の情報を用いて、 ハドロン粒子の束であるジェットを構成する粒子一つずつを分離し、そのエネルギーや方向、粒子の種類などを測定するアルゴリズムです。 従来のアルゴリズムでは高エネルギージェットで分離性能が悪化すること、様々な測定器の構成への対応が困難なことが課題で、 私たちは深層学習の一種であるグラフニューラルネットワーク(GNN)を用いて従来のアルゴリズムと置き換え可能なParticle Flowアルゴリズムの開発 を進めています。現在、従来のアルゴリズムを上回る性能が単一粒子の再構成精度では部分的に得られており、Particle Flowで重要な ジェットエネルギー分解能の改善のための研究を進めています。また、Transformerを用いたさらに新しいアルゴリズムの開発も進めています。
- Particle Transformerを用いたジェット識別アルゴリズムの開発 (末原、石野、川原、田上)
ジェット識別アルゴリズムは、上記のParticle Flowで再構成された粒子を束ねたジェットの種類を識別するアルゴリズムで、主に発生したクォークの種類を識別します。 ヒッグス粒子の約60\%はbクォークに崩壊するため、ヒッグス粒子の多くは複数のbジェットを持ち、ジェット識別により他の事象と高効率に分別することは解析性能に直結します。 また、ヒッグス粒子とc, bクォークの結合定数測定にも重要な役割を果たします。 Particle Transformer (ParT) はChatGPT等にも使われているTransformerをコライダー物理のために改良したネットワークで、LHCでの最新のジェット識別アルゴリズムにも用いられています。 私たちはこのParTを活用してILCのジェット識別アルゴリズムを開発し、測定器シミュレーションで従来のものを背景事象の分離比で1桁近く改善する性能が得られました。 現在、物理解析への適用と並行してさらなるアルゴリズムや学習手法の改善に取り組んでいます。
- ヒッグスファクトリーの物理研究のための事象生成 (Tian)
物理解析のためには、信号事象や背景事象から発生する粒子のエネルギー、方向、種類などをランダムに生成する必要があります。これを事象生成といい、事象生成のための プログラムを用います。この事象生成は事象の位相空間分布を場の量子論により求めますが、その際に加速器のビームパラメータやクォークのハドロン化、各粒子の崩壊事象などを 考慮するために複数のプログラムを組み合わせて用います。私たちはILC測定器シミュレーションのための事象生成を担当しており、世界の共同研究者の求めに応じてKEKの計算機システム などを活用し、様々な事象生成を行っています。
- 深層学習を用いたParticle Flowアルゴリズムの開発 (末原、村田、iLANCE interns)
- ヒッグスファクトリーの測定器研究
- シリコンタングステン電磁カロリメータの開発およびビームダンプ実験への応用 (末原、高津、川原、張、IJClab(フランス)、LLR(フランス)、IFIC(スペイン)ほか)
シリコンタングステン電磁カロリメータは、Particle Flow測定器のための微細分割カロリメータの候補の一つで、タングステンの吸収体とシリコンパッドセンサーを組み合わせた電磁カロリメータです。 タングステンにより主に電子、光子から電磁シャワーを発生させ、そのシャワー発展の様子を格子状に電極が分割された約30層のシリコンセンサーで検出します。 シリコンセンサーからの信号は、導電性接着材により密着するフロントエンド基板に接続され、基板上に配置したASICにより増幅、デジタイズ、シリアライズが行われ、カロリメータ端部からケーブルにより 読み出され、測定器外のバックエンド回路に送られ、データがPCに保存されます。私たちは、欧州の研究機関や日本の企業と協力してセンサーの設計・試作・性能評価、読み出しASICの評価、フロントエンド基板の設計・改良、 カロリメータの組み立て、加速器ビームを用いた試験などを推進し、実機に展開可能なモジュールの製作・評価を行うとともに、量産のための手順開発も行っています。 また、本カロリメータの応用として、KEK直線電子加速器による固定標的実験により未知粒子探索を行っており、本カロリメータは未知粒子の信号を背景事象と効率的に分離するための 鍵となる測定器として設置の準備を進めています(2025年中に数レイヤーを試験的に設置し、未知粒子探索を行う予定)。
- シンチレータ電磁カロリメータおよびハドロンカロリメータの開発 (大谷、末原、村田、高津、清野、中国科技大(中国)、上海交通大(中国)、IHEP(中国)、DESY(ドイツ)ほか)
粒子が通過したときに微弱光を発生し、それを光検出器(SiPM)で増幅・検出するシンチレータカロリメータは、上述のシリコンと比べて安価に測定器を構成できることから、 電磁カロリメータに加え、より大面積を必要とするハドロンカロリメータにも活用が可能で、Particle Flow測定器の重要候補となっています。 電磁カロリメータでは、シリコンセンサーと比べて読み出しチャンネル数が少なくなりますが、短冊状のシンチレータを用い、縦横に組み合わせることで、 粒子密度が比較的低い状況では、実質的にシリコンの分割度に近い粒子分離能力を得ることができます。この方式は日本の研究者が最初に提案しました。 (ハドロンカロリメータでは要求される分割度が電磁カロリメータに比べ低いため、正方形のタイルが用いられています。) 現在、中国のCEPCグループと共同で、電磁カロリメータ、ハドロンカロリメータ両方の大型プロトタイプを製作し、現在その性能評価を進めるとともに、 LHCの衝突点前方に設置されているFASER実験において活用することも検討されています。
- 微細分割と二重読み出しを両立した新しいカロリメータの開発 (大谷、末原、李、神山、小川、清野)
中性子等の中性ハドロンのカロリメータでの測定においては、ハドロン相互作用により一部のエネルギーが原子核に吸収されたり ニュートリノが発生したりして検出されないことにより、エネルギーの正確な測定が困難なことが大きな課題です。これを低減するには、 ハドロンが起こすシャワーのうち電磁シャワーの成分を分離することが重要です。電磁シャワー成分の分離にはいくつかの方法が考えられますが、 一つの方法は、電磁シャワーとハドロンシャワーの応答が異なる2種類の検出器を使って、その応答の違いから電磁シャワーの成分の割合を求める 「二重読み出し」という方法です。この方法はもともとParticle Flowの代替技術として考えられていましたが、私たちはParticle Flowとこの 二重読み出し技術を組み合わせることでより性能を上げられると考え、微細分割でありながら二重読み出しを行えるカロリメータの技術と シミュレーションによる性能向上の見積もりや検出器構成の最適化を行っています。また、量子ドットのような新技術を用いてこのカロリメータを 効率的に実現する方法の研究も行っています。
- LGADやチェレンコフによるピコ秒タイミングカロリメータの研究 (末原、大谷、李)
Particle Flowカロリメータに10から数10ピコ秒の時間測定器機能を加えることで、さらに性能を向上させる取り組みも合わせて行っています。 電磁カロリメータでは、シリコンセンサーに増幅機能を内蔵し、感度層を薄くして電荷収集時間を改善するLGADと呼ばれるセンサーが有力で、 このセンサーを用いた時間分解能の研究を行っています。ハドロンカロリメータでは、二重読み出しのためのチェレンコフ検出器は時間応答がよい ため、これをタイミングセンサーとしても用いることが考えられ、この研究も進めています。ピコ秒タイミング測定技術は、自動運転のための 物体検知に用いる光センサーや、がん診断のための技術としても有用で、私たちの開発する素粒子の測定技術はこのような産業、医療応用にもつながる 技術と期待できます。
- シリコンタングステン電磁カロリメータの開発およびビームダンプ実験への応用 (末原、高津、川原、張、IJClab(フランス)、LLR(フランス)、IFIC(スペイン)ほか)
国内外のヒッグスファクトリー・ILC推進・研究組織での活動
- ILC International Development Team (石野、大谷、末原、Tian)
ILC International Development Team (IDT, 国際推進チーム)は、日本でのILC実現を前提とし、ILC準備研究所の設立を目指すための国際組織です。 大谷がIDT科学セクレタリを務め、石野、末原、Tianもワーキンググループ3 (物理・測定器)の主要メンバーとして、ILCの物理・測定器研究の国際的な推進を担っています。
- ILC-Japan (石野、大谷、末原、Tian)
ILC-Japanは、日本の高エネルギーコミュニティを代表する高エネルギー物理学研究者会議(JAHEP)およびその代表機関である高エネルギー委員会(HEPC)のもとに設置され、日本の ILC推進活動を代表する組織です。現在石野がspokesperson(代表に相当)を務め、末原が物理ワーキンググループ座長、Tianが同副座長、大谷が測定器ワーキンググループ座長を務めています。 ICEPPは日本のILC推進・ILC物理・測定器研究推進の中心機関の一つとしてILC-Japanを牽引し、国内のILC活動活発化のために様々な取り組みを進めています。
- International Large Detector (ILD) (末原、Tian、大谷)
ILDはもともとILCのために構想された測定器コンセプトで、Particle Flow測定器の代表的なコンセプトです。現在は円形コライダーであるFCCeeの測定器としても 提案を行っています。ILC関連の物理解析の多くは、ILD測定器のシミュレーションを用いて行われており、ILDはILCの物理解析にとっても重要なグループとなっています。 末原はILDのexecutive team memberおよび物理co-convenerを務めています。
- DRD6 collaboration (大谷、末原)
DRDは2024年より始動した欧州の測定器開発の枠組みで、DRD6はカロリメータの研究開発を推進する共同研究です。DRDは欧州に軸足をおきつつ世界中の測定器開発を 連携させる役割も担っています。大谷、末原はDRD6の前身であるCALICE collaborationでも主要な立場を担ってきました。 大谷はDRD6の共同提案者であり、現在論文の出版や会議の講演を統括するPublication bureauの代表を務めています。
- LC Vision (石野、末原、Tian)
LC VisionはILCを含む線形コライダーによるヒッグスファクトリーの実現を目指す組織で、2024年に設立された新しい組織です。日本を想定したILC計画と並行して、 欧州の次期計画としてILCと同様の線形コライダーをCERNに建設する提案をしており、これにより線形コライダー計画全般の実現への機運を高めることを目指しています。 石野はLC Visionを統括するメンバーの一人として、末原、Tianもcoordination groupメンバーの一人として、LC Visionの提案執筆に携わりました。また、 現在は欧州戦略物理チームによる線形・円形のヒッグスファクトリーの物理的意義を比較する活動に協力しており、Tian、末原はRapid Response Teamの一員として欧州戦略 物理チームとの議論に参加しています。