(PSIのタイムリーなトピックスを厳選し、日本語訳でお届けいたします。)
若き日のシュテファン・リット博士は、既存のデータ取得のためのソフトウェアに満足できず、自ら新しいシステムを作り上げました。それから30年、そのソフトウェアはPSIのみならず世界中で広く使われています。“標準理論で禁じられた物理”の魅力と、“ミュー粒子崩壊で溢れ出す膨大なデータ”との闘い、について語りました。
自然の基本法則を深く解明したいのであれば、ビッグデータを恐れてはならない。このことを最もよく理解しているのがリット博士です。PSIのミューオン物理グループ長の彼は、日々膨大なデータを扱っています。
「Mu3e実験のフェーズIIでは、毎秒20億回ものミュー粒子崩壊を観測したいと考えています。それは毎秒200ギガバイトに相当し、一般的なハードディスクが1分足らずで容量いっぱいになるほどのデータ量です。」
リット博士とそのチームは、標準理論では決して起こらないはずの現象を、膨大なデータの中から探し出そうとしています。しかし、標準理論がすべてを説明しているわけではないという強い示唆が、既に存在しています。もし研究者たちがMu3e崩壊、すなわちミュー粒子が2つの陽電子と1つの電子に崩壊する現象を証明できれば、それは未知の物理の扉を開く決定的な証拠となり、さらには、宇宙の物質の約4分の1を占める「暗黒物質」の正体解明に迫る手がかりとなるかもしれません。
ピラミッド200個分の干し草から針を見つける
しかし、ミュー粒子の崩壊を観測するには、その前にまず、捉えどころのない粒子を大量かつ連続的に生成しなければなりません。PSIでは、ミューオン源SμS(エス・ミュー・エス)を用いてこれを実現しています。そこでは、陽子、すなわち水素原子核を標的物質に高エネルギーで衝突させることで、ミュー粒子を生成しています。このプロセスで生じるミュー粒子は、電子のより重い“仲間”にあたる基本粒子です。わずかな時間だけ存在し、磁場によって測定器へと導かれ、そこで停止させて崩壊現象の様子を観測します。
現在SμSは、単一の実験に対して毎秒およそ1億個のミュー粒子を供給しており、世界最強の連続ミューオン源となっています。しかし、理論的に起こり得る膨大な崩壊(約1京回)の中で、Mu3e 崩壊はわずか1回しか起こりません。「もはや“干し草の山から針を探す”というレベルではない。“巨大ピラミッド200個分の干し草から針を見つける”ようなものだ」とリット博士は述べています。
MIDAS-one for all
これほど膨大なデータを扱うには、高性能なシステムだけでなく、適切なソフトウェアも必要です。PSIの若手物理学者であったリット博士は、自らそのソフトウェア開発しました。それがMIDAS(Maximum Integration Data Acquisition System)です。「当時利用できたソフトウェアでは、4~5台のシステムを並行して稼働させなければならないこともありました」とリット博士は振り返ります。「私はそれが気に入らなかったのです。すべてのデータを単一のデータベースに統合できる仕組みが欲しかったのです。」
one for all-それがMIDASのコンセプトです。早くも1996年には最初のバージョンが完成していました。当初はコマンドラインで操作していましたが、現在はすべてが最新のグラフィカルインターフェースやスマートフォンからも操作できます。MIDASは、あらゆる一般的なオペレーティングシステム上で、ハードウェアに依存せずに動作します。これが、30年近く経った今でもPSIにとどまらず広く利用され続けている主な理由です。このソフトウェアは、ヨーロッパ、日本、アメリカの研究機関で稼働しています。
「MIDASは非常に安定しており、毎秒数百メガバイトのデータが数十台のコンピュータを数ヶ月間駆け巡っても、プログラムがクラッシュすることはありません。」
さらに、このソフトウェアは非常に柔軟性が高い。MIDASを新しい実験に適応させるのに必要なコードはわずか300行程度であり、残りの30万行は変更の必要はありません。
自然の基本法則を理解し、計算できること、それってすごくクールだと思う!
リット博士にとって、電子工学とソフトウェアは、幼い頃から身近な存在でした。電気技術者であった父親からは子どもの頃にハンダ付けを教わり、学生時代には友人とともに、アマチュア天文学者の間でそれが一般的になるずっと前から、望遠鏡を制御するマイクロコンピュータシステムを開発しました。ソフトウェアエンジニアではなく、カールスルーエ大学で物理学を専攻することにした理由について、彼は次のように語ります。「ある先生が、弾性力と放物運動を計算することで、金属球を一度で水の入ったコップに入れる方法を実演してくれました。つまり、自然法則を理解し、それを計算によって現実に再現できる。それがすごくクールだと思ったのです。」
カールスルーエ大学の教授との出会いを通じて、彼は素粒子物理学に関心を深めました。1988年のインターンシップをきっかけにPSIと関わりを持ち、現代の実験に必要なデータ収集に初めて携わりました。「すべてはそこから始まったのです。基礎研究と、電子工学やソフトウェア開発といった技術が融合し、最先端の実験という形で結実している-その環境に強く惹かれたのです。」
“禁じられた”物理の魅力
Mu3eと同様に、ここで取り上げる実験のひとつは、標準理論では本来起こらないとされる“禁じられた”ミュー粒子崩壊に関するものです。MEG実験において、リット博士とそのチームは、ミュー粒子が電子と光子に崩壊するという極めて稀な崩壊過程の探索に取組みました。結果として、その崩壊は観測できませんでしたが、これまでで最も精密な測定を達成した点に大きな意義があります(訳注: MEG II実験が現在も継続して探索中です)。「15年にわたる研究により、我々は標準理論を超える多くの理論を排除することができた。つまり、単に“ゼロ”を測定したのではなく、重要な下限値を確立したのです。」
後継のMu3e実験は2012年から建設が進められており、今秋には最初のデータ取得を見込んでいます。実験は2027年末に一旦終了し、その後、PSIの大規模プロジェクトIMPACTが開始される予定です。この計画では2年間かけて、2基の新たなターゲットステーションが建設され、ミューオンビームの生成率が約10倍に向上する見込みです。
また、PSIが主導する研究拠点NCCR Muoniverseも、今年初めに発足しました。今後数年間で、このプロジェクトに向けたさらなるインフラが整備され、ミューオンは材料試験、新しい量子材料の開発、さらには考古学といった多様な分野への応用が期待されています。IMPACTとMuoniverseは、ミューオン物理におけるPSIの主導的役割を長期的に確かなものにしていくことでしょう。そして当然ながら、リット博士のMIDASソフトウェアは、一連の研究を支える中心的な役割を果たすことになります。「Muoniverseの多くのサブプロジェクトでデータ取得が必要となるため、私は各グループに助言と直接的な技術支援を行っています。」
30年以上にわたり少人数のチームでこのユニークなソフトウェアを発展させ続けてきた原動力について問われると、彼の答えは明快です。「すべては実験のおかげです。自身のソフトウェアがPSIや世界中の研究者のより優れた物理研究に貢献し、重要な発見につながる―それこそが最大の報酬なのです!」
関連リンク
PSI News(29 May, 2026): Lord of the data (原文)